文治マーラン船デザイナー紹介
文治マーランの デザイナー越来文治(ごえくぶんじ)は、沖縄の船大工の
家に生まれた。根っからの船好きで、10歳の頃から父五郎に師事。
12歳の時、デパート主催の模型船コンテストで一等の賞金を獲得、
周囲を驚かせた。60年のキャリアで大小三千隻もの船を手がけ、2000年
に日本文化功労賞を受賞。
40代初めに交通事故で頭骸骨骨折の重傷を負い、生死をさまよった。
この事故が彼の人生の転機となり、長い療養生活の後、記憶を頼りに
山原船(やんばる船) を造り始めた。
文治の造った山原船は、1975年の沖縄海洋博に展示され世間の注目を
集め、NHK大河ドラマ「琉球の風」にも数多く出演。 山原船がよみが
えったと、人々を湧かせた。
晩年は歴史の中に消えた100尺(30.5 m) の進貢船を受注。博物館の
絵をもとに8人の船大工と九ヶ月で完成させた。 進貢船は琉球王朝時代
の大型木造交易船で、主に中国との間を航海した。 船が完成した時には
ニュースとして報じられ、沖縄中が大フィーバー。 巨大な進貢船を海まで
運搬するため、道路は閉鎖され、電線は切断され、島の人々は荘厳な
琉球絵巻に酔いしれた。 文治遺作となった進貢船 「南都丸」は、
今でも観光センター「沖縄ワールド」のハイライトとして展示されている。
文治の造船方法を本にしようと学者が何度も取材に訪れたが、芸術の極み
は理解できるものではなかった。コンピューターを駆使する現代のデザイナー
と異なり、船の設計図は画かなかった。 代りに船の模型を造り、自分の
概念が合っているか確認したうえで、神業さながら指し金と紐(ひも)で
板に線を引き型を起こした。 道具は斧(おの)、のみ、錐(きり)といった
素朴なものだけ。水平器なしで水平を見きわめる鋭い勘、長年培った
経験と技術、船造りに賭ける情熱が織り成す名人芸。木造帆船の
珠玉、文治マーランは琉球独自の伝統文化の象徴、古き良き琉球
王国時代を髣髴(ほうふつ)させ、大海原を奔る最高の喜びを約束
してくれる。
琉球ロマン文治マーラン船デビュー
文治マーランは、琉球の山原船(やんばる船)と呼ばれた幻の木造帆船の
復元である。馬艦船(マーラン船)の名でも親しまれ、全盛期には百隻を
超える山原船が沖縄の平安座島を中心に往来、島の人たちの生活に
かけがえのない交通手段であった。 第二次世界大戦で激戦地となった
沖縄の山原船は、軍事目的に使用されることを恐れたアメリカ軍にほとんど
が破壊された。 戦後はアメリカの軍事用に島々を結ぶ海中道路の建設が
進み、交通手段としての船の需要が激減。もともと設計図など存在しない
やんばる船は、ベテラン船大工の老化とともに時代の波にのまれていつの間
にか消えていった。
山原船を建造できる最後の船大工棟梁、越来文治(ごえくぶんじ)の最高
傑作を基に忠実に復元した文治マーラン。 四代目文治の長男が生前の
父との約束を果たすべく、アメリカで8年がかり復元、日本に逆輸入して
今年の夏沖縄でデビュ-させる。船室の扉を彩るのは、琉球尚王朝の家紋、 「左三巴」。流転する3つの渦巻は宇宙の三要素、水、火、地と伝えられる。
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